01年9月号 「対戦! ワールドカップ・フリークス」
対戦ゲームの元祖は『ストリートファイターII』だと思ってないか?
甘い甘い、『テーカン ワールドカップ』を知らずして、
アーケードの「対戦」を語ることなかれ。
04/02/15 アップ
●本文
現在、「対戦」と言えば、火付け役となった『ストリートファイターII(以下ストII)』を始めとする格闘ゲームが主流となっているジャンルだが、『ストII』以前にも現在の対戦格闘ゲームに極めて近い形で対戦が盛り上がったタイトルが存在していた。85年にテーカン(現テクモ)から発売された『テーカン ワールドカップ(以下ワールドカップ)』(※1)がそれである。非常に良く出来たサッカーゲームとして有名な作品で、当時はどのゲーセンでも見かけたメジャータイトルであった。
しかし、このゲームが対戦ツールとして実はかなり奥が深かったことや、一部のマニアたちの間で全国規模の対戦ネットワークができるほどの盛り上がりを見せていたことなどは、古いゲーマーにも意外に知られていないようだ(※2)。
今回のオールドゲームミュージアムは、当時トップレベルのプレイヤーとして『ワールドカップ』最前線を戦い抜いた山岸勇氏(現・ビートライブ店長)の奮闘話をもとに、当時のムーヴメントをトレースしていくことにしよう。
■開幕
当然のことながら、『ワールドカップ』が発売された直後から、いきなり全国規模の盛り上がりが起きた訳ではない。
山岸氏も、発売当初は自らが店員を勤めていた東京・町田のプレジャーキャッスルにて、4〜5人程度の常連仲間のみと対戦する日々だったそうだ。身内のみのリーグ戦をひらくなど、氏いわく「全日本プロレスのように、5〜6人いれば盛り上がれる」状況で、充分満足して対戦を楽しんでいたという。
しかし、研究と練習を重ね自分たちのプレイに自信を持つにつれ、身内だけの対戦に物足りなさを感じるようにもなっていったという。
こうなると、外のゲーセンに敵を求めたくなるまでに、さして時間はかからないもの。後の格闘ゲームにおける対戦マニアと、まったく同じである。
「都内近郊のゲーセンにちょくちょく遠征に行くようになって、○○が強い、とか聞くと、ウチより強いヤツいるわけないじゃん! とか言いながら対戦しに行きましたね」と山岸氏。
強いプレイヤーが町田以外にはいなかった、というわけではなかったようだが、「地域」とか「店」といった単位で見た場合、町田勢の御眼鏡にかなう対抗勢力は、当時東京近郊には存在しなかったようだ。
■好敵手
発売からかなりの期間が経過し、町田勢が「世界で自分たちが一番強いだろ」と本気で考えていたころ、ついに最大のライバルとなる名古屋のプレイヤーと対戦をする機会が訪れた。名古屋のとあるプレイヤーがショーの帰りに単身町田に乗り込み、対戦を挑む、という事件(?)が起きたのである。
そしてこのとき、町田勢は、自分たちが想像もしなかった様々なテクニックに翻弄されることになる。
どうやら、町田勢と名古屋勢では、攻略のアプローチがかなり異なっていたようだ。町田勢は純粋にトラックボールを回すスピードや、ドリブル時のフェイント、心理戦といった要素を重視して(楽しんで)プレイしていたという。それに対し名古屋勢は、対処法を知らなければまず防げないようなシュートパターン(※3)の開発など、テクニックや知識的な面における研究が、町田勢と比較にならないほど発展していたのである。
さて、件の名古屋からの挑戦者との対戦、勝負自体はなんとか五分五分だったものの「世界最強を確信していた」町田勢にとって、そのショックはとてつもないものだったという。
さらに言うと、このときは、名古屋の戦法やプレイスタイルに対して、あまりいい印象を持てなかったというのも事実だったそうだ。「今まで築き上げたものが、全部姑息な技にやられてしまったような気がして……」と、山岸氏は当時の町田勢の心境を語ってくれた。
実際、その「名古屋ショック」の直後、町田勢の間では一時的にだが、ワールドカップの対戦が盛り下がってしまったほどだったという。自分が認めたくないスタイルが強いという現実に直面して、そのゲームがつまらなく見えてしまう……これまた対戦格闘ゲームの世界でも、よくあることだ(※4)。
しかし、そこはさすがと言うべきか。町田勢は、このありがちな負け犬根性に呑み込まれることはなかったのである。
■復活
それでもやはり『ワールドカップ』の対戦が好きだった町田勢は、完全にこのゲームを投げてしまうことはできなかった。なんだかんだと文句を言いつつも、名古屋勢に使われた技を自分たちの力で研究し、再現することに取り組んでいたというのである。「あの技どうやってた?」「確かこんな感じで……」などと言いつつ、何ヵ月もかけて少しずつ様々な技を自分たちのものにしていったのだ。
そして数ヵ月後、様々な技を分析し、かなり自信を取り戻したころ、全国各地のワールドカップマニアが集まる、大規模(※5)な大会が開かれることになったのである。
結果、メインとなる5オン5の団体戦では見事、町田勢が優勝を飾った。文句を言いつつも、このゲームをあきらめなかったことと、数ヵ月にも及ぶ地味なテクニックの研究が見事に実を結んだのである。
その後、再び開かれた同様な規模の大会では、リベンジを誓った名古屋勢が団体戦優勝を果たしている。最終的に、名古屋勢と町田勢の実力は、かなり拮抗していたようだ。いずれにせよ、こういった盛り上がりが、『ストII』が出る直前まで継続していた地域があったというのだから、その息の長さには驚くばかりである。
そして91年の春、『ストII』の発売。このころになると、根強かった『ワールドカップ』の対戦も、さすがにその使命を終えたかのように終息に向かっていく。テーブル型筐体の淘汰(※6)がこの時期に進んだことも、少なからず影響しただろう。
『ワールドカップ』は、後の対戦格闘ブームへとつながる貴重な何かを各地に残し、次第にゲーセンからその姿を消していった。
テクニック、知識はもちろん、情熱や精神性といったものまで、プレイヤー同士の接触があるアーケードという場では、様々な遺伝子が受け継がれていく。それは世代やゲームジャンルの枠すらも越え、過去から現在まで連綿とつながる、価値ある何かであろう。
今まったく別の対戦格闘ゲームに燃えているあなたも、どこからか巡ってきたワールドカップ・フリークスの遺伝子を、受け継いでいるのかもしれない。
●コラム(左ページ上段)
TECHNIQUE 〜その一部を紹介〜
■その(1)
ゴールエリア付近でキーパーに向かってボールを転がすようにシュートする。正面から打つとキャッチされてしまうが、角度がある場合、キーパーはボールを弾いてしまう。この、こぼれ球を再度ゴールに向かって叩き込めば、キーパーは倒れているのでどうしようもない。
■その(2)
ボタンちょい押しでできるロビングでパスを出したときに敵のキーパーが画面に入ると、キーパーにカーソルが移動しなくなり、相手プレイヤーがキーパーを操作できない状態でシュートを打つことができるのだ。
■その(3)
得点で勝ち越したら、敵のゴールが見えるところまで行く。キーパーにカーソルがつき、相手はフィールドプレイヤーを操作できなくなる。ボールを持ったプレイヤーを静止させておくと、CPUはスライディングタックルしかしなくなるので、それを避け続けてタイムアップまで粘る。
(筐体写真キャプション)
操作はトラックボール+1ボタン。コンパネ部にある「TEHKAN」のロゴが眩しい。これはスタンディングタイプの専用筐体。テーブルタイプのほうが、普及していた印象がある。
(山岸勇氏写真キャプション)
山岸 勇
町田ビートライブ店長
プレジャーキャッスルの店員、町田アテナの店長を経て、現在はビートライブの店長として活躍中。アテナ杯、ビートライブカップの運営により、バーチャシリーズの盛り上がりに大きく貢献するなど、根っからの大会好き。現在でも自らサッカー、野球などをやっているスポーツマンで、本誌ライターのがっちん曰く「すげー運動神経良くてさー、足なんか無茶苦茶速いんだよ」とのこと。
●コラム(両ページ下段)
■※1:ワールドカップ
85年に現在の「テクモ」が、まだ「テーカン」という社名であった時代に発売された、伝説のサッカーゲーム。トラックボール+1ボタンによる単純な操作系ながら、実に奥深いプレイ、戦略を可能にしている。未だにこの作品を越えるサッカーゲームは無い、と言い切るプレイヤーも多い。
■※2:意外に知られていない
今ほど情報網が発達していなかった当時『ワールドカップ』の対戦ネットワークは、有力なハイスコア集計店同士のつながりがベースになっていたようだ。そのため、ハイスコア集計店などが近場になかったプレイヤーは、意外にこのゲームの対戦の盛り上がりを知らない場合が多い。
■※3:まず防げない
特定の防ぎにくいシュートに対しては、対処法を知らないとそれだけで勝負が決まってしまうという。現在の対戦ゲームでも、特定のハメっぽい連携など、対処法を知らないと勝負にならない場合が稀にあるが、それと同じような状況だと考えてもらえばいいだろう。
■※4:よくあることだ
対戦格闘ゲームでも、自分の研究不足を棚に上げ、ゲームにケチをつけてやめてしまう人っている。遊びだから、無理してがんばる必要はどこにもないんだけど、少しがんばってみればより深い楽しさが享受できることも多いわけで。まあ、町田勢はここで踏ん張ってみたわけだ。
■※5:大規模
『ワールドカップ』がやり込まれていた地域(店)は、町田(キャッスル)、名古屋(星が丘キャロット)、大阪(ABC、ジャンボ)、福岡(モンキーハウス)、栃木(今市ゲームセンター)、岡山、秋田、仙台など、全国に散らばっていたようだ。やはり、名のあるハイスコア集計店が存在する都市が多い。
■※6:テーブル型筐体の淘汰
当時は通信対戦台など無く、ワールドカップの対戦も1台のテーブル筐体(もしくは上の写真のような専用筐体)で向かい合ってプレイしていた。操作系にトラックボールを使用している関係上、アップライト筐体に1台で対戦できるコンパネ周りを作ることは、ほぼ不可能なのである。
名古屋と筆者の個人的関係
筆者は幸運にも、『ストII』対戦ブームの真っ只中を名古屋ですごすことができた。『ワールドカップ』から『ストII』に移行した「星が丘キャロット」周辺のマニアたちは、「対戦」というものに対して、徹底した考えがすでに出来上がっていた。当時ありがちだった「投げハメは汚い」だの「待ちは卑怯だ」だのといったことが、一切なかったのだ。筆者はザンギエフをやっていたのだが、みんなガッチリ待ってくれたので、すげー鍛えられた。オレ、ここで、『ストII』やってなかったら、スクリューハメはするくせに、「待ちは卑怯!」とか言っちゃう、カワイソウな対戦プレイヤーになってたかもしれない……。